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── Media Watchdog Group

昭和天皇は戦争責任を果たしていたか?

 戦争責任に関する昭和天皇の発言が、彼の側近だった小林忍氏の日記に記述されていたことがニュースになった。マスメディアは、昭和天皇の発言として「細く長く生きても仕方がない。……戦争責任のことをいわれる」と記述されていることなどを挙げて、昭和天皇が晩年まで戦争責任で「苦悩」していたことが明らかになったなどと伝え、あたかも昭和天皇アジア・太平洋戦争で犯した罪に向き合い、その責任を果たそうとしてきたかのような印象を与えている。

 しかしマスメディアが視聴者に押し付けたい昭和天皇のイメージとは反対に、昭和天皇は戦争責任を全く果たしておらず、自らに戦争責任が及ぶことも避けようとしてきた。
 昭和天皇の戦争責任は、天皇の権威を日本の占領・統治に利用しようと考えていたダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の方針に従い、全ての戦争責任を軍部に押し付けることで免責された。GHQ東京裁判昭和天皇を不起訴とすることを最初から決めており、昭和天皇に責任が及びそうな証言を被告がした際には、その証言を撤回させることまでした。昭和天皇自身も、真珠湾への奇襲攻撃は自分の宣戦の勅書を東条英機首相(当時)が悪用したものだとニューヨーク・タイムズ(1945/9/25)の取材に回答して東条にその責任を押し付け、東京裁判が近づくと自身の戦争責任を回避するために『独白録』と呼ばれる弁明書まで作成している。
 また昭和天皇は1947年9月、米軍による沖縄の軍事占領を「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」として行うことを──日本国憲法施行後の「象徴」という立場を超えて──合衆国政府に対して求めているが(昭和天皇の『沖縄メッセージ』)、その際、昭和天皇は「沖縄の安全」の問題には一言も触れずに、米軍の沖縄占領が「米国の利益になるとともに、日本の防衛にも供するであろう」と述べて、「ロシアの脅威」と「日本の内部への干渉」を「日本が直面している」具体的な「危機」として挙げている(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書)。昭和天皇は戦時中に本土防衛のために「捨石」にした沖縄を、そのことに対する謝罪も償いもせぬまま戦後再び外交交渉の過程で「捨石」にしたことになるが、その結果、米軍による占領と沖縄の苦悩・苦難は現在に至るまで続いている。
 さらに言うと、昭和天皇には戦争責任を感じる能力があったかどうかさえ疑わしい。戦中は「限りなき信仰と敬愛の念」を寄せていた天皇のために身を捧げて戦ったものの、マッカーサーとの会見では「元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭をたれ」、天皇の名の下に行われた戦争によって「おびただしい人命が失われた」ことに対する責任も果たそうとしない昭和天皇を見て狂わんばかりに憤慨していた復員兵の渡辺清氏は、終戦翌年の元日の勅書(いわゆる『人間宣言』)においても潔く戦争責任を取ろうとせず、逆に「狐や狸の化かし合い」のように「現人神」を否定して居直り宣言をした昭和天皇に激怒し、さらに昭和天皇サイパンからの復員兵との会話で「本当にしっかりやってくれてご苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間として立派な道に進むのだね」と述べたことを耳にした際には、なぜ「私のために御苦労かけてすまなかった」くらいのことを言えないのか、「天皇は、人間ならことにあたって誰しもが抱くあたりまえの責任感すら持っていないのか」と考え、天皇の「心無い無責任さはもはや絶望的だ」と結論している(渡辺清著『砕かれた神 ある復員兵の手記』岩波現代文庫)。

 今回公表された日記について、マスメディアは

昭和天皇が晩年まで戦争責任をめぐって苦悩していた様子が、改めて浮かび上がった」朝日18/8/24)

昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった」毎日18/8/23)

昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があったのだとうかがわせる」(作家・半藤一利毎日18/8/23 =共同配信)

「訪米の世評を気にして昭和天皇が涙を流したことも書いているが、こうした人間的な感情が湧いてくるというのは、(戦前に学んだ)帝王学から次第に遠ざかっていったということではないか」(ノンフィクション作家・保阪正康氏 同)

「日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は……昭和天皇が戦争責任の問題を長年重く受け止め、高齢になるにつれ、その思いが強くなっていたことがうかがえると分析しています」NHKニュース7、ニュースウォッチ9 18/8/23)

などと評価しているけれども、公表された日記の要旨のうち、昭和天皇の戦争責任に関して記されているのは次の通り。

「1975年4月28日 沖縄デーでデモ行進あり。混乱の有無をお尋ねあり。何もなかった旨申しあげた。『それはよかった。それはよかった』と非常にお喜びだった」

「5月13日 『天皇の外交』伊達宗克著につき、戦争のつぐないとして平和外交を推進しているかの如く広告しているが、そのような内容ならそれはおかしい。戦前も平和を念願しての外交だったのだからと仰せあり」

「11月24日 ……訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を気になさっており、自信を失っておられる。お上の素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚威的にもりあげたことなど申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを申しあげたところ、涙をお流しになっておききになっていた」

「80年5月27日 華国鋒首相の引見にあたり、陛下は日中戦争は遺憾であった旨おっしゃりたいが、長官、式部官長は反対の意向とか。右翼が反対しているから、やめた方がよいというのでは余りになさけない。かまわず御発言なさったらいい。大変よいことではないか」

「87年4月7日 仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。これに対し、戦争責任は一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。気になさることはない。国のため国民のために、今の状態を少しでも長くお続けいただきたい旨申し上げた」

 いったい、どこをどう読んだらそのように解釈できるのだろうか。
 1975年4月28日と5月13日の記述については言うに及ばず。11月24日の記述に記されている訪米から帰国後の記者会見(1975年10月31日)では、昭和天皇は戦争責任についての質問に対して「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と返答し、広島の原爆投下について聞かれて「こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と答えており、昭和天皇が気にして「自信を失って」いた「世評」とは、こうした昭和天皇自身の無責任な返答に対する批判のことを指す。80年5月27日の記述については、日中戦争が「遺憾」だったと述べているだけで、中国を侵略したことに対する謝罪の気持ちもなければ、自分が犯した過ちとして反省している様子も示していない。念のため確認しておくと、「遺憾」という言葉は「期待したようにならず、心残りである」「残念に思う」といった程度の意味を表す言葉だ。87年4月7日の「細く長く生きても仕方がない。……戦争責任のことをいわれる」という記述も、戦争責任を感じて「苦悩」しているのではなく、戦争責任をいつまでも言われるのが嫌だと言っているに過ぎないのではないか。